キャバレー

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キャバレーとは、本来はダンスコメディショーなどパフォーマンスをする舞台のあるレストランナイトクラブの事である。

なお、日本風俗営業法ではキャバレーとナイトクラブは明確に別種として区分されている。

札幌クラブハイツ。北の歓楽街の象徴、大型キャバレー今月閉店。時代の変化、客足遠のき(2013年2月)[編集]

歌手・小林幸子さん「思い出の場所、寂しい」

札幌・ススキノで2013年2月28日、フロア面積1000平方メートルの大型キャバレー「札幌クラブハイツ」が閉店する。高度経済成長期の1971年から42年間、北の歓楽街の象徴としてにぎわったが、時代の変化で客足が遠のいた。全国でも同規模店舗は東京・赤羽の「ハリウッド赤羽店」などわずかに残るのみ。また一つ、昭和が消える。

雑居ビル6階。ステージを中心に扇形に450人席が並ぶ。ジャズの歌声と客の笑い声。ミラーボールが輝き、傾けたグラスで氷がカランとなる。30年来の常連でオホーツク地方の男性漁師(52)は「札幌の会合後、2次会でよく使った。10人や20人でも予約なしで必ず入れる店は滅多にない。ありがたかったよ」と話した。   札幌冬季五輪の5カ月前、映画館などを展開する「東京テアトル」(東京)が開いた。全国でキャバレーがにぎわい、ススキノにも10軒近くあった。特に札幌クラブハイツは「エンペラー」(1973~2006年)、「ミカド」(1974~1986年)と並んで3大“大箱”と呼ばれた。

ホステスは多い時には300人抱え、ステージには小林旭さん、和田アキ子さん、研ナオコさんらが立った。下積み時代から歌った小林幸子さんは取材に「歌い手として勉強になり、行くのがうれしい場所でした。売れない時の思い出の場所がなくなることが寂しい」とコメントした。

1976年に運営を引き継いだ子会社「札幌開発」(札幌)の末永礼造社長(64)は「客は仕事仲間の団体が多く、酒を飲みながらショーやダンスを楽しんだ。企業戦士の安らぎの場で、元気な日本の縮図だった」と話す。

しかし、繁盛したのも年間12億円を売り上げた80年代まで。近年は約4億円に落ちた。娯楽の多様化もあるが、末永社長は「(1986年施行の)男女雇用機会均等法で職場に女性が増えると、仕事仲間同士ではホステスのいない店に行くようになった」と振り返る。男性従業員は「官官接待が批判され、不景気で企業の接待費が削減された90年代、急速に客が減った」と明かす。

東京のキャバレーチェーン「ハリウッドグループ」創業者、福富太郎さん(81)は「女性が稼げる所が少なかった時代はホステスを集めやすかったが、今は高い給料を出さないと来ない。100人は必要な大箱には厳しい世の中」と指摘した。

店は今、閉店のニュースを聞いた客でにぎわっている。常連客という札幌市の男性投資家(66)は「ただでさえ、ススキノは寂しくなったのに、本当に街が終わる」と嘆いた。

フランス[編集]

パリモンマルトル界隈ではかつて19世紀に伝説的な隆盛を見せたシャ・ノワール(黒猫)と呼ばれるキャバレーがあり、エリック・サティパブロ・ピカソなど、モンマルトルに住む名だたる芸術家たちの若き日の溜まり場となった。現在もラパン・アジルをはじめ、ピアノアコーディオンなどの伴奏によるレトロなシャンソンを聴かせる往時の雰囲気を残すいくつかの小さなキャバレー(シャンソニエ)がある。

同様にパリ郊外の川沿いにはギャンゲットと呼ばれるレストラン兼ダンスホールがあり、19世紀から続いている。現在も年輩者をはじめ多くのパリ市民に親しまれている休日午後の娯楽となっている。

パリにはまた一方でムーラン・ルージュやリド、クレイジーホースなどのいわゆる高級キャバレーもあり、こちらは大規模な店内でトップレスの女性が舞台上でスペクタクルを繰り広げる(ただし決して卑猥なストリップショーではない)のが特徴である。歴史的にはフレンチカンカンが展開されたことでも有名である。

ドイツ語圏[編集]

ドイツ語圏におけるカバレットはニュアンスがやや違ってくる。オーストリアではカバレーという。カバレットとは、ドイツ語圏において、文学的なバラエティー・ショーのことである。シャンソン(カバレット・リート)を聞かせたり、寸劇・演芸を見せたりする場所であり、およびその作品のことでもある。

主なカバレッティスト[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]