松本瀧藏

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日ソ国交回復交渉に出発する鳩山一郎首席全権(首相)、薫子夫人、2列目左から河野一郎全権(農相)、松本滝蔵全権顧問(官房副長官)1956年10月8日 東京・羽田空港

松本 瀧藏(まつもと たきぞう、Takizo Frank Matsumoto[1]1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、昭和期の政治家。元衆議院議員。元外務政務次官内閣官房副長官教育者。元明治大学教授広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。

来歴

母と共にアメリカに渡りカリフォルニア州フレズノで育つ。苦学してマサチューセッツ工科大学に進学するが人種差別で退学。1923年、22歳で帰国し旧制広陵中学に編入した。年は大きく違うが同級の加藤喜作、銭村辰巳らと野球部で活躍。しかしあまり上手くなく、広陵中学が全国大会初出場(第9回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場))した同年、メンバーには入れずマネージャーとして参加。五年時には9番センターでレギュラーとなるが、第10回全国大会の山陽大会準決勝で、この年初の全国制覇を果たした石本秀一監督率いる広島商業とあたり惜敗した。なおこの年、松本が作った広陵高校野球部の応援歌は、現在も残るが全編英語詞のため、今は歌える人がいないといわれている。

卒業後明治大学に進学。野球部に入部しマネージャー(主務)として貢献した。1929年、明治大学は岡田源三郎監督下で異例の世界一周をした。この時は得意の英語で大いに働いたという。運動と勉強をよく両立し教授に認められ大学院に残る。大リーグレフティー・グローブルー・ゲーリッグらを含む"大リーグ選抜チーム"として二度目の来日した1931年には通訳として参加。過熱する大リーグ人気で、日本の少年少女たちが1934年に来日したコニー・マックに送った手紙の返事は松本が書いたという。日米野球で懇意になったモー・バーグの世話で1937年ハーバード大学留学し、同大学大学院の経営科を卒業した。帰国後、日本女子大学教授、フィリピン国立大学交換教授、明治大学教授、理事を歴任した。明治の教授時代には広陵の後輩で、当時の六大学の花形選手だった田部武雄を苛めていた、という件が松木謙治郎の著書(大阪タイガース球団史 1992年度版、奥井成一共著、ベースボール・マガジン社、153頁)にある。田部は巨人軍在籍時に松本宅に住んでいたという。

1946年、戦後初の衆議院議員総選挙に広島全県区から立候補し当選。この後第23回衆議院議員総選挙から旧広島1区で岸田正記(岸田文雄の祖父)、灘尾弘吉らと競い当選5回。流暢な英語力を生かして占領軍との交渉に当たり、特に戦後の日本のスポーツ復興に大きな功績を残した。占領軍に接収されアメリカ軍人の娯楽場となっていた甲子園球場の返還に佐伯達夫キャッピー原田らと尽力し、1947年からの選抜中等学校野球大会再開に貢献。またアメリカ第八軍が接収しようとした神宮球場の解除を交渉。しかし解除が難しいなら学生野球のため、未接収だった後楽園球場を代わりに使用すべく交渉にあたった。ところが戦後のプロ野球リーグ再開に執念を燃やす鈴木惣太郎の熱意に折れ、後楽園球場の使用は諦めた。神宮球場が接収解除されたのはこの後大きく遅れ1952年までかかった。

1949年、占領下でマッカーサー元帥が後援し、戦後初の日米親善野球となったサンフランシスコ・シールズ来日にあたり日本側の実行委員長としてその開催に尽力。元々正力松太郎や鈴木ら、讀賣グループを中心に招聘を予定していたが、マーカット少将が松本を委員長に据えたといわれている。やむなく鈴木が副委員長に就任。同年正力の初代日本プロ野球コミッショナー就任にも参画したものの、正力は「松本君みたいに、いままでプロ野球に関係のないものが委員長になるのは、スジが通らない。日本のプロ野球を代表する人物は、連盟会長の鈴木龍二君か副会長の君(鈴木惣太郎)なんだ。...」 と憤慨していたらしく、こうした理由からプロ野球界からは好ましくない人物と思われていた可能性がある。野球以外にもスポーツ各界に大きな影響力を持ち日本水泳連盟理事として1949年、やはりマーカット→マッカーサールートで海外旅行が困難な時代に即座に旅券を交付させ、他の競技団体に先駆け水泳の国際社会ー国際水泳連盟復帰に尽力[2]。また戦後の学校柔道の復活に占領軍と折衝したり、アメリカンフットボールの日本導入に関与しアメリカンフットボール協会会長を務めた他、日本体育協会理事などの要職を歴任、スポーツ外交に大きく貢献した。オリンピックには戦前の1936年ベルリンオリンピック1952年ヘルシンキオリンピックに本部役員として参加。戦後日本が初めて国際舞台に復帰した1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)1954年第2回アジア大会(マニラ)日本代表役員、1950年の日本水泳チーム米国遠征団長などを務めた。

1952年片山内閣連立政権1957年第1次岸内閣外務政務次官就任。1954年第1次鳩山内閣第3次鳩山内閣内閣官房副長官を務め、1951年サンフランシスコ講和会議全権随員、1956年フィリピン賠償全権委員、日ソ国交正常化全権委員顧問として参加。またインドネール首相など外国からの要人来日時の通訳も務めた。

その他、日本社会人野球協会副会長などの要職を歴任。広島では現在も松本の名を冠した社会人野球大会が続いている。人あたりの良いスマートな紳士で、面倒見の良い人物といわれたが、政治家として脂の乗り切った1958年、57歳で世を去った。従四位勲二等旭日重光章

脚注

  1. Ichioka, Yuji and Gordon H. Chang and Eiichiro Azuma, 2006, Before Internment: Essays in Prewar Japanese American History, Stanford Univ Pr, p.192.
  2. 藤田明著 『水泳わが友わが人生』 評論社比火企画、1984年5月、p19

参考文献

外部リンク