広瀬久忠

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広瀬 久忠(ひろせ ひさただ、1889年(和暦??年)1月22日 - 1974年(和暦??年)5月22日)は日本の官僚政治家

生涯

山梨県生まれ。広瀬家は塩山(甲州市塩山)の旧家で、久政の長男として生まれる。次男勝丸は御坂(笛吹市御坂町)の網野家の養子となり[1]、三男の名取忠彦は甲府商家名取忠愛の婿養子となり、戦後に山梨中央銀行頭取となり、山梨県政にも影響力を持つ。

東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省する。福井県および東京府の内務部長、東京市助役三重県知事埼玉県知事などを経て、内務省土木局長、社会局長官、内務次官、厚生次官を歴任する。これらと並行して、対満事務局および企画院参与も務めた。

1939年(和暦??年)、平沼内閣厚生大臣[2]を歴任する。翌1940年(和暦??年)には米内内閣内閣法制局長官を歴任し、同年に貴族院議員に勅選された。また、産業設備営団総裁にも就任した。

太平洋戦争末期の1944年(和暦??年)、小磯内閣で厚生大臣、翌1945年(和暦??年)2月に国務大臣内閣書記官長に転任する。終戦直後、東京都長官関東信越地方総監に就任したが、1946年(和暦??年)にGHQによる公職追放処分を受けた。

追放解除後の1953年(和暦??年)には、第3回参議院議員通常選挙山梨県選挙区から立候補して当選、政界に復帰した。

脚注

  1. 勝丸の子で久忠の甥には、歴史学者の網野善彦がいる。
  2. 広瀬久忠の厚生大臣就任は、山梨県出身の政治家では初の大臣就任事例。
先代:
木戸幸一
小泉親彦
日本の旗 日本 厚生大臣
第2代 : 1939
第10代 : 1944 - 1945
次代:
小原直
相川勝六
先代:
田中武雄
日本の旗 日本 内閣書記官長
第49代 : 1945
次代:
石渡荘太郎
先代:
唐沢俊樹
日本の旗 日本 内閣法制局長官
第40代 : 1940
次代:
村瀬直養
先代:
西尾壽造
日本の旗 日本 東京都長官
第3代 : 1945 - 1946
次代:
藤沼庄平
先代:
福島繁三
日本の旗 日本 埼玉県知事(官選)
第30代 : 1933 - 1934
次代:
飯沼一省
先代:
市村慶三
日本の旗 日本 三重県知事(官選)
第28代 : 1931 - 1933
次代:
早川三郎