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'''阿部 典史'''(あべ のりふみ、[[1975年]][[9月7日]] - [[2007年]][[10月7日]])は、[[東京都]][[世田谷区]]出身の[[モーターサイクル]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]][[レーサー]]。ニックネームは'''ノリック'''で、エントリーネームを「Norick Abe(ノリック・アベ)」としていた。
'''阿部 典史'''('''あべ のりふみ'''、[[1975年]][[9月7日]] - [[2007年]][[10月7日]])は[[東京都]]出身の元[[モーターサイクル]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]][[レーサー]]である。レースでのエントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe('''ノリック'''・アベ)」。
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== 来歴 ==
 
== 来歴 ==
東京都[[世田谷区]]出身。父は[[オートレース]]選手の[[阿部光雄]]。5歳からバイクに乗り、[[ポケバイ]]、[[ミニバイク]]レースを経験した。15歳で渡米し[[ダートトラック]]、[[モトクロス]]の修行をする。[[1992年]]に[[ヤマハ発動機|ヤマハ]] TZ250を駆り地方選手権であるスーパーカップイースタンシリーズに参戦しランキング2位を獲得。翌[[1993年]]からは特別昇格にて国際A級に昇格することになり、[[本田技研工業|ホンダ]]のマシンでレースへ参戦していた[[チーム・ブルーフォックス]]に加入し、サテライトチームながらワークスマシン[[NSR500]]で[[全日本ロードレース選手権]]、それも異例といえる最高峰クラス・500ccクラスにフル参戦することになった。[[鈴鹿サーキット]]での開幕戦においていきなり2位を獲得し脚光を浴び、その後もルーキーながら勝利を挙げるなど活躍を続け、最高峰500ccクラス史上最年少の18歳で全日本[[チャンピオン]]、そしてこの年限りで500ccクラスが休止となることが発表されたため、全日本500cc最後のチャンピオンとなった。
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東京都世田谷区出身。父は[[オートレース]]選手の[[阿部光雄]]。5歳からバイクに乗り、[[ポケバイ]]、[[ミニバイク]]レースを経験した。15歳で渡米し[[ダートトラック]]、[[モトクロス]]の修行をする。[[全日本ロードレース選手権]]フル参戦一年目の[[1993年]]に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳で[[チャンピオン]]、そして500ccクラス最後の[[チャンピオン]]となった。
  
[[1994年]]には[[ロードレース世界選手権]](WGP)[[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]](鈴鹿)にて[[ミスタードーナツ|ミスター飲茶]]レーシングチームから出場。[[ケビン・シュワンツ]][[マイケル・ドゥーハン]]らと苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなGPデビューを飾る。このパフォーマンスのインパクトは、[[バレンティーノ・ロッシ]]がこの時の阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗り始めたエピソードが物語っている。
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[[1994年]]には[[ロードレース世界選手権]](WGP)[[日本グランプリ (ロードレース)|日本GP]][[ケビン・シュワンツ]][[マイケル・ドゥーハン]]等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、[[バレンティーノ・ロッシ]]がこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。
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後に[[バレンティーノ・ロッシ]]は、自分からサインを求めたのは後にも先にもノリックだけと語っている。
  
この1994年シーズン当初の阿部は全日本500ccクラスの休止により全日本のスーパーバイククラスへ参戦クラスの変更を余儀なくされており、500ccマシンでレースをするチャンスは前年に全日本500ccチャンピオンを獲得したことによる[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]資格でのこの日本GPただ一戦のみであった。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はシュワンツ・ドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。
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シーズン前の状況では、阿部は全日本ロードレース選手権・スーパーバイククラスへの参戦が予定されており、WGPへの参戦予定は、前年度に国内500ccチャンピオンを獲得したことによる[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]での日本GPただ一戦のみであった。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。
  
この時点で阿部はホンダ陣営の所属だったが、日本GPでの快走を高く評価した[[ウェイン・レイニー]]からの強い誘いによりシーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、[[ダリル・ビーティ]]の負傷欠場の代役としてWGPに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、レイニーの強い希望によって実現したといえる。またヤマハ側としても日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーが(例え他メーカーの所属だとしても)欲しかったこと、さらに[[バブル崩壊]]の余波でブルーフォックスが運営難に陥っていたこと、全日本のスーパーバイククラスに阿部がスムーズに馴染めなかった事などから、500ccマシンでのレースを強く望んでいた阿部を引き止められる状況ではなかったことも要因として挙げられる。
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この時点で阿部は[[本田技研工業|ホンダ]]陣営の所属だったが([[セミワークス|サテライトチーム]]のチームブルーフォックスに在籍していた)、この時の実力を高く評価した[[ウェイン・レイニー]]からの強い誘いにより、シーズン中ながら[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。ヤマハ側としても、日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーがたとえ他メーカーの所属だとしても欲しかったこと、[[バブル崩壊]]の余波でチームブルーフォックスが経営難に陥っていたため、阿部を引き止められる状況ではなかった(むしろヤマハから違約金をもらってチームの経営を立て直すことが急務だった)ことも要因として挙げられる。
  
[[1995年]]よりWGPフル参戦。[[1996年]]の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、[[1982年]]の[[スウェーデン]]GPでの[[片山敬済]]以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。以後、[[ロードレース世界選手権|モトGP]]へと移行した後も[[2004年]]までグランプリの世界最高峰クラスで戦い続けた(但し[[2003年]]はスポット参戦)。
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[[1995年]]よりWGPフル参戦。[[1996年]]の世界GP第3戦日本GP([[鈴鹿サーキット|鈴鹿]])では、[[1982年]]の[[スウェーデン]]GPでの[[片山敬済]]以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
  
[[2005年]]より[[スーパーバイク世界選手権]]に参戦の場を移し、2007年には13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰、[[鈴鹿8時間耐久ロードレース]]へも初めて参戦を果たした。全日本第6戦を終えた時点で総合3位につけており、自身のオフィシャルサイトでは[[10月20日]]に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
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[[2005年]]より[[スーパーバイク世界選手権]]に参戦の場を移す。[[2007年]]より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、当期6戦を終え総合3位。自身のオフィシャルサイトでは[[10月20日]]に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
  
2007年10月7日18時20分頃、[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]大島1丁目の片側2車線の[[市道]]の右側車線を500cc[[スクーター]]型[[バイク]]で北上中、左側車線から突然[[Uターン]]してきた4トン[[トラック]](現場付近のコンビニへのルート配送中。運転手は後に「道を間違えた」と供述)と衝突し、20時50分過ぎに搬送先の病院で死去。現場はUターン禁止場所だった。享年32。
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しかしながら、[[2007年]][[10月7日]]午後6時20分頃、[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]大島1丁目の片側2車線の[[市町村道|市道]]の右側車線を500cc[[スクーター]]型[[バイク]](黒い[[ヤマハ・TMAX]])で北上中、左側車線から突然[[Uターン]]してきたコンビニエンスストア([[セブン-イレブン]])配送用の4トン[[貨物自動車|トラック]]に衝突し、午後8時50分過ぎ、搬送先の病院にて32歳の若さで急逝。現場はUターン禁止区域だったため、このトラック運転手は起訴され、禁固1年4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた。
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[[戒名]]は正道院弐輪英雄典久大居士。
  
 
== 戦歴 ==
 
== 戦歴 ==
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* 1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
 
* 1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
 
* 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
 
* 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
: ロードレース世界選手権500ccデビュー
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*:ロードレース世界選手権500ccデビュー
 
* 1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
 
* 1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
* 1996年 - WGP500ccランキング7位(日本GP優勝)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
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* 1996年 - WGP500ccランキング5位 1勝 〔日本GP〕/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
 
* 1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
 
* 1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
* 1998年 - WGP500ccランキング6位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
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* 1998年 - WGP500ccランキング8位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
* 1999年 - WGP500ccランキング6位(リオGP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
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* 1999年 - WGP500ccランキング6位 1勝 (リオGP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
* 2000年 - WGP500ccランキング8位(日本GP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
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* 2000年 - WGP500ccランキング8位 1勝 (日本GP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
* 2001年 - WGP500ccランキング7位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
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* 2001年 - WGP500ccランキング7位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
* 2002年 - MotoGPランキング6位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
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* 2002年 - MotoGPランキング6位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
* 2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)  
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* 2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)
 
* 2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
 
* 2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
 
* 2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
 
* 2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
 
* 2006年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
 
* 2006年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
* 2007年 - 全日本ロードレース選手権JSB1000/ワイズギア・レーシング
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* 2007年 - 全日本ロードレース選手権JSB1000ランキング8位(ワイズギア・レーシング/[[ヤマハ発動機|ヤマハ]][[ヤマハ・YZF-R1|YZF-R1]])
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*:鈴鹿8時間耐久ロードレース9位([[ジェイミー・スタファー]]/YAMAHA RACING 81/ヤマハYZF-R1)
  
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
レースでのスタートに秀で、WGP時代には予選10位台のスタートグリッドながら1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。独特の前輪に荷重させたライディングスタイルは[[マイケル・ドゥーハン]]に「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。
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スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。前輪に荷重させた独特のライディングスタイルは[[マイケル・ドゥーハン]]に「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。
  
全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。[[ヘルメット]]の下からはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。2003年頃からは短かめの髪になったが、これは本人の好みの変化によるもの。
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全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。[[ヘルメット (オートバイ)|ヘルメット]]からはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。[[2001年]]頃に今までより髪を短く切り、ワックスでスタイリングをするようになったが、これは本人の好みの変化によるもの。
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ヘルメットのデザインは全日本時代からノリックが好きな星と翼をモチーフにしたデザインとなっている。
  
 
== 関連項目 ==
 
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* [[モータースポーツ]]
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* [[日本人ライダー一覧]]
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* [[バレンティーノ・ロッシ]]
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*[[バレンティーノ・ロッシ]]
* [[ウェイン・レイニー]]
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*[[ウェイン・レイニー]]
* [[ケニー・ロバーツ (シニア)]]
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*[[ケニー・ロバーツ]]
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
* [http://www.norickabe.com/index.html Norick,The Racing Star(公式サイト)]
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* [http://www.norickabe.com Norick,The Racing Star(公式サイト)]
  
[[Category:1975年生|あへ のりふみ]]
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阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日 - 2007年10月7日)は、東京都世田谷区出身のモーターサイクルロードレースレーサー。ニックネームはノリックで、エントリーネームを「Norick Abe(ノリック・アベ)」としていた。

来歴[編集]

東京都世田谷区出身。父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラックモトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。

1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPケビン・シュワンツマイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。 後にバレンティーノ・ロッシは、自分からサインを求めたのは後にも先にもノリックだけと語っている。

シーズン前の状況では、阿部は全日本ロードレース選手権・スーパーバイククラスへの参戦が予定されており、WGPへの参戦予定は、前年度に国内500ccチャンピオンを獲得したことによるワイルドカードでの日本GPただ一戦のみであった。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。

この時点で阿部はホンダ陣営の所属だったが(サテライトチームのチームブルーフォックスに在籍していた)、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。ヤマハ側としても、日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーがたとえ他メーカーの所属だとしても欲しかったこと、バブル崩壊の余波でチームブルーフォックスが経営難に陥っていたため、阿部を引き止められる状況ではなかった(むしろヤマハから違約金をもらってチームの経営を立て直すことが急務だった)ことも要因として挙げられる。

1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年スウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。

2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、当期6戦を終え総合3位。自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。

しかしながら、2007年10月7日午後6時20分頃、神奈川県川崎市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーターバイク(黒いヤマハ・TMAX)で北上中、左側車線から突然Uターンしてきたコンビニエンスストア(セブン-イレブン)配送用の4トントラックに衝突し、午後8時50分過ぎ、搬送先の病院にて32歳の若さで急逝。現場はUターン禁止区域だったため、このトラック運転手は起訴され、禁固1年4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた。 戒名は正道院弐輪英雄典久大居士。

戦歴[編集]

  • 1988年 - 13歳でレースデビュー
  • 1991年 - アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
  • 1992年 - スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位
  • 1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
  • 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
    ロードレース世界選手権500ccデビュー
  • 1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
  • 1996年 - WGP500ccランキング5位 1勝 〔日本GP〕/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
  • 1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
  • 1998年 - WGP500ccランキング8位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
  • 1999年 - WGP500ccランキング6位 1勝 (リオGP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
  • 2000年 - WGP500ccランキング8位 1勝 (日本GP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
  • 2001年 - WGP500ccランキング7位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
  • 2002年 - MotoGPランキング6位)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
  • 2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)
  • 2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
  • 2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
  • 2006年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
  • 2007年 - 全日本ロードレース選手権JSB1000ランキング8位(ワイズギア・レーシング/ヤマハYZF-R1
    鈴鹿8時間耐久ロードレース9位(ジェイミー・スタファー/YAMAHA RACING 81/ヤマハYZF-R1)

人物[編集]

スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。前輪に荷重させた独特のライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。

全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。ヘルメットからはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。2001年頃に今までより髪を短く切り、ワックスでスタイリングをするようになったが、これは本人の好みの変化によるもの。

ヘルメットのデザインは全日本時代からノリックが好きな星と翼をモチーフにしたデザインとなっている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]